すこやか生活

音楽 Twitter@_sui101sui_

聴いてくれる人にとっての何かになること、何かを伝える歌であることは歌の存在意義としてひとつ確実にあるものだと思うけれど、それ以前に、大前提として自分自身が救われるような、手放しで愛せるような音楽でなければ、恐らくそれらの項目も満たされないのだろう。(そもそも音楽に意義を求めること自体がナンセンスかもしれないが。)

数ヶ月自己完結の音楽を作り続けて、やっぱり誰かに聴いてほしい、って思ったから、久しぶりに人前に出て歌った。

歌いたいという気待ちは割と溢れていた。けれど、やはり視線を浴びることそのものは苦手なままで、結果として今回思い描いていたそれを満たせるようなライブには出来なかったな、と思う。もちろん今できる限りは尽くしたけれど。悔しくてたまらなかった。だって私もっと歌上手いし声も出るもん。身軽に動き回れる身体能力もあるもん。なんて言うのはダサいのわかってるんです。見てくれる人がいる以上こういうことを言うのは失礼なのもわかる。誰かが私にくれた人生の30分を有意義なものに出来なかったとしたらそれは有罪だもの。

 

例えばあるバンドを初期から見ていて、少しずつ売れて行って、「成長過程が見れて良かった」みたいな話はあるあるだけれど、それはあくまでお客さん側だから言えることであり、演者が「成長過程見ててね!」みたいな温度感を外に出しちゃいけない、ステージに立つ人間はいつもプロでなければ、と思う。もしかしたらかつての私はそれにそぐわないような発言をしたかもしれないけれど、今はそう思っている。(もちろん数打って成長しなきゃいけないのは当たり前だし、成長したぞ!っていう己の実感は大事。) だから、あの瞬間のMAXゲージのプロになりきれていなかった自分に苛立つ。復帰戦だし、とか、初めてのスタイルだし、とかなんかいろいろ言い訳はできるんだけどそれはやっちゃダメだから。まだまだ力不足。

 

でも、大きな収穫もあって。

ツイートの話と被るけれど、弾き語りをしていた頃、度々感じていた「私はこの音楽でいいのか?」という気持ち。自分が作った曲そのものを疑ってしまう気持ち。私の歌を褒めてくれる人もいた。とてもありがたいことだし救いだった。でも、肝心の自分がどうにもそれを信じきれずにいた。気持ちだけが先走ってライブを入れても結局いろんなところがちぐはぐで、私は何をしたいんだ?とだんだんわからなくなってしまっていた。

トラックを作り、楽器を置き、ハンドマイクで歌う。それを見越した音楽。今の私は自分が作った曲が割と好きだ。自分が思い描く音楽に、前より近づけている気がする。ライブにはたくさんの反省点があったけど、「この曲をもっとかっこよく表現したかった」とか「こういう動きを入れられたらよかった」とか、めちゃくちゃ前向きな反省が浮かんできてホッとした。

弾き語りの音楽も大好きだけど、そもそも私、いわゆる邦ロックライブキッズだったから。揺れたり、ぶつかり合ったり、跳ねたり、踊ったりの環境にどっぷり浸かってきた人間だから、いちばんの理想はそっちにあって。ツイッターに上がっていた曲は弾き語り寄りだったけど、他は割とやかましかったりもして、前の私を知ってる人からしたらびっくりする内容だったと思う。でもどちらかと言うと、今の私の方がもっと私です。

トラックでやる以上機材についてももっともっと詳しくなってクオリティ上げていく必要があるし、やるべきことは山のようにある。

同世代のミュージシャンがどんどんメジャーで輝いてゆき、歳下の才能もどんどん飛び出してくる。年齢でやってるわけじゃないけど、劣等感はもちろんあるし、スタート遅かった後悔とか、どうしようもないとこで凹んだりすることもあるけど、音楽を辞めようってはやっぱり思わなかったし、辞め方もわからない。出来ないことが出来ないままなのが嫌だ。

 

マジでアーティストという立場でありながらこのようなほぼほぼ反省文のようなものを書いているのは本当にダメな奴だと思うし、自分でも2000字近くこんなの書くなよって思うんですが、裏を返せばそれくらい真面目に考えてやっているのです。もっとかっこよくなりたいです。

 

 

 

ご飯を炊き忘れたのでここで終わります。

 

 

 

 

もっとラフなブログ書きたいよお〜(n回目)