母・スパゲティ・私
ご飯を炊き忘れたとき、作り置きが切れたとき、買い出しに行きそびれたとき、今日ちょっとめんどくさいなと思ったとき、私はスパゲティを茹でる。8割方エスビーのからし明太子ソースを使う。これが昔から食べてきた1番安心する大好きな味なのだ。
実家に家族4人で住んでいた頃は、専業主婦の母親が365日夕飯を作ってくれていた。その中で、スパゲティのターンはあまり多くなかったように思う。
スパゲティの日はだいたい2人前を盛った大皿を2皿(味も2種類)と、大きいボウルに入ったサラダをみんなで取り分けて食べていた。
一時はペペロンチーノブームやカルボナーラブームもあったが、私はとにかくブレずに明太子スパゲティが好きだった。
明太子スパゲティが夕飯の日は内心「今日はご馳走だ!」のテンションだった。(毎日バランスよくいろんなものを作ってくれる母親だったので、今思えばもちろん毎日がご馳走だったが、やっぱり大好物は興奮指数が違う。)
食べ盛りの私は小分けに何度もお代わりして、大皿をすごいペースで減らしていた(ような記憶がある)。
あの頃目を輝かせて食べていた明太子スパゲティを、今の私は「ご飯を炊き忘れたとき、作り置きが切れたとき、買い出しに行きそびれたとき、今日ちょっとめんどくさいなと思ったとき」に食べている。
母親は私がスパゲティを好きであることはわかって作ってくれていたと思うけれど、もしかしたら「今日はちょっと夕飯考えるのめんどくさいな」とか「お買い物行くにはちょっと元気ないからスパゲティにしちゃお」とか思ってそうした日もあったのかもしれない。
だからどうこういう話ではないのだけど、自分で用意した明太子スパゲティを食べながら、毎日毎日献立を考えておいしい食卓を用意してくれてたこと、すごいなぁ、気乗りしない日もあっただろうになぁ、ありがたかったなぁ、なんてぼんやり考えたりした。
こういうのもまた、大人になったということのひとつなのだろうか。いや、私は母親という立場になっていないしまだまだ思い至らないところだらけなんだろうが。
でも、こうしてかつての生活の中にあったひとつひとつの当たり前を解いて見つめ直すことができる生活と心がある今でよかったなと思う。
そういえば、青椒肉絲(これも大好物)をリクエストすると8割の確率で「材料切るのめんどくさい」という理由で断られていた。
確かにあれを4人前はめんどくさい。
今度作ろう。
スイカバーの緑のところ
アイスを早く食べるのが苦手だ。
キンキンに冷たいものをばくばく食べられる人はすごい。
得意不得意とは別の話で、「早く食べたくない」自分もいる。料理もお菓子もアイスも、食べたらなくなるのは同じなのに、アイスに対してだけ特に名残惜しさを感じる。じっくり食べたい。
時間をかけて食べた料理はもちろん冷めてしまうけれど、そもそも美味しく食べられる時間も長いからあまり気になったことはない。
一方でアイスは、常に「溶け」に追いかけられている。ビチャビチャの液体に戻ってしまったものはもうアイスとは呼べなくて、「冷めた料理」どころか「もういろいろ終わっちまったもの」になる。
スイカバーの1番下の緑のところ(いわゆる皮の部分)が好きだ。実際のところ赤の部分と大して味の違いなどないんだろうが、なんか緑のところの方が好きだ。ここを1番味わいたい。
でも、どうしてもいつもここに辿り着く頃には今にも滴り落ちそうな状態になっていて、私はこれを垂らさないようにばくばく食べるしかない。悔しい。ここを味わいたい。悔しい。
かと言って、下側から食べるのはなんだかとても無作法に感じるし、何より普通に食べづらい。
かつてメロンパンの耳とかいう商品が流行ったように、スイカバーの皮みたいなのがあればいいのにな‥。
それもなんか違うか‥。
私は原田泰造
他人は変えることができない ←わかる
だから自分が変わるしかない ←???
「何こいつ」と思ってしまうような出来事が起きるたびにこれを考える。
例えば職場に合わない人がいたとする。その人自身を変えるのは難しいから、こちらが対応を変えよう!みたいな解釈で合ってるよね?
なぜ私が?
と思ってしまう私の心が狭いのだろうか。
なぜ他人に迷惑をかけたり不快な思いをさせている人のために私が私を曲げなければいけないのか? 大きい話で言えば転職活動までしなければいけないのか?なぜ負担を強いられるのがこちらなのか?考えるほどにこの世はクソゲーだし、感性が繊細な人間には到底不向きな場所だなと思う。
私自身も決して立ち居振る舞いが柔らかいタイプではないので(自覚しているので努めて穏やかな挙動を意識しているが割とダダ漏れているらしくて凹む)、相応に他人に不快な思いをさせたこともあるとは思うが。自分を棚に上げようとは思わないが。
でもどうにも大人の言う「そういうもんなんだよ」みたいな諦観には納得できない。私は成人しているけどいつまで経っても大人ではないみたいだ。今だに大人になりたくないなって思うし。
筋が通らないことが嫌い。曲がったことが大嫌い。原田泰造です。そう、私は原田泰造だったのだ。
??
???
今の高校生とかって曲がったことが大嫌い原田泰造ネタ知らないのかな。
おわり
近況
皆様いかがお過ごし。
何かツイートしようとしては なんかこれツイートするほどのことじゃなくない? とか 大した告知案件も揃ってないくせにどうでもいいツイートばっかしてるのダサくない? とかその他100個くらいの思考がブオオオオオオってなってしまって1ヶ月も黙っていたのかという我ながらビックリのやつです。バチクソゴリゴリのHSP回路で笑う。そもそも私のこと見てる人なんてそんなにいないんすわー。って話ですわー。ワンダースワン。
?
ステイホームワーカーになって3ヶ月半、音楽の外の、純粋な私の日常生活の中で脳みそに新しく刻まれたことを報告。人間的成長と脳みそのシワは増えた。と思う。
【自炊スキル爆上がり】
爆上がりと言ってもそもそもが調味料醤油しかないようなほぼ自炊しないマンだったので、やっと人並みかな!くらいのものだけどまぁ相当やるようになった。毎日出来合いのものに頼るとさすがにお財布も厳しいしね。かと言って雑な食事を繰り返すには長期間過ぎて耐え難い。
得意なのはネギ塩豚丼とキーマカレー。特に今力を入れてるのはカレー。ルーを使わずカレー粉でやる。もう近いところにスパイス沼が見えている。ちなみに無水のモッタリしたやつが好き。仕上げに温泉卵乗せるじゃん?トぶぜ?
いろんなメニューを試していくなかで、調味料をだんだん目分量でやれるようになったり、食材の使い回しや価格相場、日持ち、保存方法、いろんなことを覚えて応用が効くようになっていくのがすごく楽しい。もうしばらくこの生活は続きそうだから、もっとレパートリー増やしていきたいなぁ。
あと、一時期半月くらい自炊をサボったとき、ストレスを感じるハードルがめちゃくちゃ下がって心荒みまくって大変だったの。胃酸が上がってきたり息が詰まったり酷くて、また病院に薬もらいに行こうかなって思うくらい。最初は関連性に気付かなかったんだけど、もしかして?と思って自炊再開したら面白いくらいに落ち着いていって。料理って実はかなりストレス発散になってるんだって知って驚きだった。
【漫画を読みまくった そしてその結果】
私は元来漫画やアニメが大好きなタチなのだが、没頭体質が酷いので、例えば既出50巻ある漫画に手を出すと、50巻読み終わるまで他のことがえげつなく疎かになってしまう。食事とか平気で抜くし部屋も荒れる。アニメもそう。サブスクで3クールとか公開されてるの見始めると詰む。あっという間に日が暮れたり朝になったりする。そんなこんなでここ数年はずっと敬遠していた。
ところがある時実家の母親がパート先の同僚に半ば押し付けられて鬼滅の刃を読み始めたと言う。面白いそうだ。へぇ‥。
ということで、U-NEXTを契約している私は鬼滅のアニメを一気見してしまった(以前東京喰種を見て花江さんのファンになっていたことがさらに私の背中を押してしまった)。恐らく鬼滅は気になってから半年以上見て見ぬ振りをしていたのではないか‥。そしてまんまとハマりコミックスに手を出してしまったというわけだ。封印は解かれてしまった。ついでに声優さんに対する興味もブチ上がった。
本の類いはなるべく紙が良いのだけどさすがに今は置く場所がないので、これを機にこれまた散々渋ってきた電子書籍に挑戦する。読む分にはなんら問題がない。お気に入りはもう少し広い家に住めるようになったら少しずつ物理でコレクションしていこうと思う。
昔読んだけどもう一周した
(タイトルから想像するような ハートフル動物漫画♡みたいなやつじゃない マジでいろんな角度からの狂人しか出てこないカオス作品なので知らない人はぜひ)
最新刊まで読んだ
・鬼滅の刃
・呪術廻戦 (秋アニメ楽しみ)
・アクタージュ
読みかけ
・HUNTER×HUNTER(だいぶ前に暗黒大陸編まで来てるけど難解すぎて亀速に)
・SPY×FAMILY
・ブルーピリオド
おすすめしてもらったり、友達が読んでてタイトルだけ知ってたやつを読み始めたりっていうのが多い。他にも今一度見直ししたい作品、これから回収したい作品、とにかくたくさんあるけど、オススメある人はガンガン教えて欲しい。
漫画アニメを解禁して、たしかにそこに時間を使ってしまうようにはなったけれど、何より想像力が膨らむ膨らむ。別な世界に入り込むことや、誰かに感情移入することがとても自然に為されるから、例えばあるキャラクターの思想が自分に溶け込んで新しい思想が生まれたり、言葉が浮かんだりみたいなことがたくさんあって、とにかく良いことしかなかった。
好きなものを我慢することに何の意味があったんだろう。なんか今日ダメだぁ‥って溶けていってしまう時間があるくらいなら、いつだって没入できる世界を片手に持っていた方が余程良いじゃないか、ばかばか!ってなりながら毎日ちょこちょこ漫画を読んでいる。
好きになると割とすぐ自分でもやってみたくなっちゃう人だけど漫画はそう思ったことがない。あまりに自分の才からはかけ離れているのがわかるから。ありがたく読ませて頂いています。漫画家さんは本当にすごいです。アニメーターさんも。いやみんなすごいんだけど。
逆に、自分でやってみたいな〜!と思えることは、それほど自分から遠くないということも裏付けているわけだ。物は試しにいろいろやる心意気大事にしてこーーー。
公開する文章ってどうしても練ろうとしてしまうから(当たり前だけど)、別アプリで普通に日記をつけたりしてたんだけど、今このご時世この生活の中で思うこととか感じることってすごく貴重なもののはずだから、こちらにももっと残していけるように心身ともに健康で日々を並べてゆきたいなと思う。
ではでは。
あの恋
ふと思い出した話である。
小学校高学年の頃、いつも一緒に遊んでいた友達と好きな人がかぶっていたことがある。けれど私たちは特段バチバチになることもなく、今日はこんな話をしただの、こういうことしててかっこよかっただの、それぞれのキュンキュンした話を小さいメモ帳に書いて渡し合っていた。
ところがある日突然友達は私を避け始めた。他に2人ほどよくつるんでいた友達がいたのだが、その2人を囲い込んで私を突き放した。避けられてると気付いた時は心当たりがなくて本当に意味不明だった。私が問い詰めたのか、どういう経緯でそこに至ったのかは忘れたが、その子に「あなたは○○君のこと好きで、どうしたいと思ってるの?私は付き合いたいなと思ってるんだけど!そっちは違うの?」みたいなことをザックザクに言われたことはすごく覚えている。私は「あっ、そうなんだね‥」と言ったあと何と言ったのかイマイチ思い出せないが、なんか多分濁したんだと思う。おそらくは、君とは本気度が違う、私たちはライバルだ!みたいな意味合いで避けられていたのだろう。
当時の年齢的にもなんというか、その子はあのタイミングが目覚めだったのだろうと今は思う。が、その時の私はというと「なんでそれで私が避けられなきゃいけないんだ」といった感じで、まぁ不快な思いをしたくないなら関わらなければいい話なんだけど、なんでその子に執着してたのかもわからないけれど、私はその友達に「謝罪の手紙」を書く。もちろん自分に非があるとは全く思っていなくて、その心はなんというか、年相応の考えではないよなと思うのだけど、「うまく謝っとけば丸く収まるっしょ」的なそれであった。私は友達とギクシャクすることに対するストレスが人一倍でかいのだ。
「私はどうしたいとか、付き合いたいとかまだはっきりわからないな。あなたがもし私と話すの嫌なら仕方ないけど、私はこれからもあなたと仲良くしたいです。ごめんね。(←いや急に何の謝罪?)」みたいなことを書いた。これも意外と覚えている。
そして結果的にその子はまた私と遊んでくれるようになった(それでいいんか?)。仲直りしてもライバルだからね!的なことを言われた気もするが特に何かが変わるわけでもなかったし、結果的にどちらも告白もせず卒業した。3人とも同じ中学校に進んだが結局違う好きな人ができて、卒業する頃には彼はもう私の視界でも友達の視界でもモブだった。相変わらず顔立ちは綺麗だったけれど。
「恋愛としての好き」は必ずしも「付き合いたい」という意思と連動するものなのだろうか?いや、恋愛という言葉を使うとなんか語弊というか矛盾というか、変な感じもするのだけど‥。
私はいい大人になった今も「この人のことが好きだな!」で完結してしまうことが多い。話すときにどきどきしたり、目で追ってしまったり、そういうことは当たり前にあるのに「私のものにしたい」的な意思がほとんど芽生えてこない。アタックしようとかも思わない。勇気がないとかってより、なんか多分意思がない。好きになった相手に彼女がいたり出来たりしてもそれほど凹まない。
その人を好きでいるだけで楽しい。話して嬉しくなるだけでいい。好きだと言ってしまうことで良い方だろうが悪い方だろうが相手からの自分の見え方が特殊になってしまうことにも抵抗を感じる。
でも付き合える展開が目の前に転がってたら?と聞かれたら付き合うと思うから、そこは間違いなく恋愛感情なのである。ただ自発的な欲求が全然湧いてこないのでちょっとよくわからない。
・・・
もしかして
これこそが
清き無償の愛?!?!
落しどころがわからなくなったためバカっぽい発言をして解散。
焼肉してぇ〜〜〜
某朝
目が覚めると電気は煌々と光りエアコンからは生ぬるい風が出ていた。足元にだけかけられた羽毛布団が少し暑い。読みかけの本がバナナの皮みたいに私の平たい胸に落ちている。どうやらうたた寝してしまったようだ。2:8で開かれたページには全く覚えのない文章が並んでいたが、もしかしたらこれも夢かもしれないと、そのままそこに栞を挟んだ。さぁ寝よう、とエアコンと電気を消すとカーテンの隙間から眩しい光が差し込む。手探りで掴んだ液晶をタップすると時刻は午前6:30を回っていて、世界はすっかり朝であった。私の部屋だけが国境を超えている。あと30分もすれば秒針のうるさい目覚ましのアラームが鳴る。ちょうどいい。少しゆっくりして綺麗に早起きできるじゃないか。少しだけラインに返信を入れ、ニュースを読む。
さぁ起きよう、と携帯をタップする。
8:30
なるほど。
最近の話
コンタクトもせず、化粧もせず、電車にも乗らず、週1.2回のスーパーとたまのコンビニでしか外に出ない生活になって半月経つ。
7.8年前に開けて安定しきったピアスホールすらつけてなさすぎて狭くなるのが心配になってきて、テキトーなシルバーボールのやつをぶち込んだ。
化粧の仕方とかもう忘れてるんじゃないか。とりあえずなんかよくわからないまま眉毛を細く剃ってみたりした。(暇すぎて眉毛全剃りしたって友達とかいたんだけどやっぱり人間時間あると眉毛剃りたくなるのかな)
販売職の友達もだんだん休業になった人が増えて来たけれど、その休みはやはり完全補償というわけにはいかず、有給を溶かしたり減給になったりという状況がざらのようだ。その点在宅勤務で変わらないお給料をいただけている私の環境は非常にありがたいものなんだろう。
往復の通勤時間や化粧にかける時間など様々なところが簡略化されたことで時間のゆとりはかなり増えた。運動不足感は否めないが、睡眠時間などを考えても正直かなり健康的な生活になった気すらする。自宅に調味料が増えた。
ところが時間が増えたからといっていろんなことをメキメキやっていけんぞー!というわけにはいかず。いや、行くと思ってたんだけど。始まる前は。
一人暮らしで在宅をしていると、生活の中での何気ない挨拶やたわいない会話をすることすらなく、コミュニケーション機会が9割減になる。スーパーも朝イチで行くのですごく空いているし、とにかく密です!の隙すら与えない圧倒的孤独。
だから、意識して人と連絡を取るようにしたり、ガンガン電話しようぜ〜!みたいな心持ちだった瞬間もあったのだけど、ふと我に返るといつのまにかすり減っている自分に気付いたりする。
最新の情報に疎いのが嫌でニュースも追いかけ回していたけれど、あまりの先の見えなさや攻撃性が強まるばかりのSNSにだんだん気持ちが塞ぎ込んできて見るのが辛くなった。音楽とか小説とか、やりたいことたくさんあったはずなのに、あらゆる興味が薄くなってきていて焦る。好きなものに対する興味が薄まってくるのはめちゃくちゃ良くない兆候。
そこで朝から一切テレビをつけず、主要ニュースはヤフー様の速報でサクッと確認する程度にし、仕事中も音楽は流さず電車の音やカラスの鳴き声だけを聞いてキーボードを叩き、夕飯を食べる時だけ当たり障りないバラエティを音量8で見、早めに布団に入って眠くなるまで小説を読むサイクルにしてみた。ラインも一生懸命返さなくてええんやでと自分に許可した。(私が返そうが返してなかろうが何かあると一方的に送られてくるしな)(近い友人たちはそういうところが好きだ) そしてようやく心は少しずつマシになってきた。
そもそもがインドア気質強めなので、自粛だの巣篭もりだの意識する必要が多分あまりなかった。仕事こそあれど、私は普通に「休日の引きこもりスタイル」をそのまますれば良いのだ。
時折ボーッと窓の外を見ているといろんな言葉が頭を駆け巡る瞬間があって、それをメモに残して広げていくのが楽しい。そろそろ音楽を作れるだろうか。
体が健康的な生活になっても、やはり精神的にはじわりじわりと参っているのだろう。うまくいかないところがいくつかある。
あとね、大好きなライブハウスのことを思うととても辛くて、現に閉店が決まった話も見かけて、私がお金持ちだったらその場しのぎでももっといろいろ出来たかもしれないのに‥!とか、タラレバ話で落ち込んだりもした。
こんな理由でこんな気持ちになるのはどうかとも思うのだけど、やっぱり私がこの先返せることがあるとしたら、それはやはり出演するか客で出向くかが最短ルートだから、うん、両方できるようにならないとね。なりたいね。
みんなは大丈夫ですか。元気にしていますか。考えるほど何を言ったらいいかわからず音沙汰がなくなっていましたが私は息をしています。マスクはいつまで経っても買えませんがぼちぼちやっています。
お互い元気でいたいね。
そのために出来る限りの努力はしようね。
家に居られる人は家に。
医療、ライフライン、通信、販売などなど、私たちの生活を守ってくれている人たちには心の底からの感謝と健康を祈って。
ね。